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敦煌・ウルムチ

1997年9月 シルクロードの旅に寄せて

旅行の日程

  1. 1997年9月13日(土)成田 → 北京
  2. 1997年9月14日(日)北京 → ウルムチ
  3. 1997年9月15日(月)ウルムチ →トルファン
  4. 1997年9月16日(火)トルファン → 柳園
  5. 1997年9月17日(水)柳園 → 敦煌
  6. 1997年9月18日(木)敦煌
  7. 1997年9月19日(金)敦煌 → 西安
  8. 1997年9月20日(土)西安 → 北京
  9. 1997年9月21日(日)北京
  10. 1997年9月22日(月)北京 → 成田

1997年9/13 シルクロードの旅:成田 → 北京

成田14:55発、夕刻北京着。暗くなってから中国に入国すると数年前の国慶節に上海着陸前に 上空で見た盛大な花火を思い出す。北京は4年ぶりだが、空港では相変わらずトランクが出るの が遅い。30分以上じっと待つ。
やっと表に出て随行員の李さんと会う。彼はバスの中で手話通訳者を食い入るようにみつめている。北京のガイドは楊さんという中年の女性。「ヨウはどんな字を書きますか?」と聞いたら「楊貴姫の楊です」の答えに図々しいと思わず一人でわらった。
夕食のレストランへ着いたのは8時半頃。街の中は4年前とはかなり変わって近代建築のビルやネオンサインが増えている。遊ぶところもかなり増えて「近代化」が進んでいるな、と感じる。
夕食後、ホテルへ。部屋割り、換金、お土産やをのぞいて部屋に入ったのは午後10時すぎ。明朝は観光出発が7:00。ハードだ。

1997年9/14 シルクロードの旅:北京 → ウルムチ

199709-tendan.jpg朝7:00ホテル発。
天壇公園は朝の体操をする老人と凧揚げをする人がいっぱい。観光客は早朝なのでさすがに少ない。
しかし 故宮は観光客が多い。外国人だけでなく中国人も。バスを降りてから故宮入口まで露店がつづく。故宮では映画「ラストエンペラー」を見た人がメンバーが多く、その話でもちきりに。海外旅行の手話通訳は手話だけでなく、特に固有名詞のためにホワイトボードでの筆記も欠かせない。漢字圏以外の外国は聞いた音をそのままカタカナで書けばいいが、中国では歴史や人物の漢字も知らなくてはならないし、日常使わない漢字も多く四苦八苦だ。

199709-kokyu.jpg天安門広場はちょうど開催されていた中国共産党大会を祝ってお花や果物で飾ってあり、今まで見た中で一番きれいだし人も多い。
夕方ウルムチ行きの飛行機にのる。スチュワーデス全員すごい美人。ウルムチはウイグル族が多いと聞いていたが、そのせいなのかそれとも旧ソビエト、今のウズベキスタンあたりとの混血のせいか。さらに昨日の国際線よりあいそもいい。飛行機はアエロフロートの中古なのかロシア語表示の上に中国語が貼ってある。 ウルムチは随行員の李さんの本拠地。彼は飛行機の中で練習したという手話でウルムチの概略を説明。メンバーの拍手かっさいをあびた。夕食は羊の丸焼き。見た目は豪華だが日本人の口にはあんまりあわない。午後10時頃ホテル着。


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1997年9/15 シルクロードの旅:ウルムチ → トルファン

朝食は昨日のビュッフェスタイルとは違い中国式。
ウルムチ市内観光は博物館とバザール。博物館は大きく、時代順になっていて見やすい。楼蘭(ろうらん)の美女などミイラのコレクションが多い。
バザールでは30分ほどしかなく忙しかったが、後で成果を見せあうとみんな上手な買い物をしていた。
トルファンまではバスで3時間の予定。山の間の細い道をガタガタといく。山あいの河を雪解けの透明な水が流れている。ここは年間降水量60ミリ程度の所で数年前に1日に35ミリ降って家の85%が流されたところだ。昨夜、日本の夫に電話をしたら台風19号で九州に雨が1メートル以上降ったと言っていた。
途中の山道でバスが突然止まる。前後延々と車が数珠つなぎだ。運転手が降りて確認。真っ昼間なのに道路を通行止めにして工事をしているという。まわりの車の群れはあきらめて終わるのを待っている、という。どうしようもなく我々もじっとしていたら、まわりのトラックの運転手が私たちのバスをとりまいてワアワアわめいている。みると我々の運転手が得意そうに話しをしている。我々聞こえない団体が珍しくてとりまいているのかと思ったが、そうではなく、どうやら我々のバスが新車なので珍しがっているようだ。そのうち車体やバンパー、アルミホイールまでさわっている。
その場所で2時間、ただじっと待った。途中、前のバスから男性が3人おりてきて持参の小さいじゅうたんを広げて祈りだした。ウイグル族はイスラム教徒が多い。彼らはお祈りのために携帯用じゅうたんまで持っている、と感心。感心ばかりしていられない。2時間も待っていると生理的がまんの限界が近づいた。近くのガソリンスタンドにトイレがあったがとても入れたものではない。仲間の発案で3人で傘を持って近くの草むらで順番にしゃがんだ。何せ年間降雨量が60ミリ程度で年間蒸発量が1000ミリ以上の地域なのだから悪いことはないはずだ。
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やがて17時過ぎにトラックに満載(?)の工夫らしい人達がワアワア何か叫びながら反対方向に走り去り、しばらくすると対向車が開通した。やっとこちらの車線も動き出す。何の説明もなく止められ、何のアナウンスもなく動き出す。実に中国らしい。私は慣れているので頭にもこないが添乗員と随行員は今晩の食事や食後の民族舞踊観覧の予約もありカリカリしている。
トルファンには夜8時半過ぎに着く。あわてて食事をしてから踊りを見に行く。添乗員たちの交渉の結果見られることになったウイグル族の踊りだが、私は目が細いせいか上まぶたと下まぶたがくっついてしまいそうになり、途中で失礼して寝た。部屋に入ったのが23時過ぎ。今日もハードだ。

1997年9/16 シルクロードの旅:トルファン → 柳宴

199709-roba-taxi2.jpgウルムチ、トルファンはものすごく乾燥しているのを肌が感じる。顔を洗うと手までピリピリする。
今日は少しのんびりだ。9時出発。午前中は高昌故城とアスターナ遺跡。午後はベゼクリク千仏洞と交河故城を見学し、ホテルでひとやすみしてから夜11時半の夜行列車で柳園へ向かうというスケジュール。高昌故城は入口からろばタクシーでゆられていく。茶色のつちくれの林立する中をろばでコトコト揺られていき、かつて玄奘三蔵のために高昌国王がつくったという住居跡などの遺跡をみる。当時はにぎやかな町だったというが、今は荒涼とした赤茶けたつちくれだけで玄奘三蔵が通ったのがいかに大昔なのか、思い知らされる。城址だけでなくこのあたりが大きな国を支えられるほど豊かな国土だとはとても思えない。ただ水だけはウルムチもトルファンも天山の雪解け水のせいで透明で、中原地帯の黄色い水とは全く違い私の知っている中国らしくない。
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アスターナ遺跡はちょうどエジプトの王家の墓のように穴がぼこぼこあいているところをおりていき見学する。初めの遺跡はミイラがあり、ここはみんなミイラだらけなのか、とちょっとびびってしまったが絵画の遺跡もありほっとした。
ベゼクリク千仏洞は敦煌莫高窟や龍門石窟という感じ。ここ西域は支配者の交代に伴いの信仰がつぎつぎ変化し、ベゼクリク千仏洞もかなり被害をうけた。また欧米や日本の「探検隊」による盗難の被害もあった。しかし残っている壁画は今なお色をとどめ、時の流れを私たちに語りかけてくれる。
ここのまわりは全て火焔山。夕陽をあびると更に赤く燃えるような色になるという。
交河故城は世界遺産に登録されている。ここは山をきり崩して城を築き、城自体がちょうど軍艦のような形をしている。90度岩壁がそそりたっているところもある。赤ちゃんのお墓、役所跡などなど聞けば生々しい日常生活がかつて繰り広げられていたというが、今は高昌故城同様廃墟で、赤い土がほこりとなって舞い上がっている。見学後、お土産屋さんがだしてくれた冷えた西瓜がおいしい!
夕食後、バスでトルファン駅に向かう。まんまるい月が煌々としてきれいだ。今日は仲秋の名月。東京は台風で月見どころではないらしい。

1997年9/17 シルクロードの旅:柳宴 → 敦煌

前夜の寝台列車は都合で添乗員と私の2人だけ別車両。車両には既におじいさんが寝ていたので私たちもすぐに寝た。朝起きてからそのおじいさんと筆談。彼は香港人で中国本土には何度も観光に来ているという。時刻表片手にいつも一人旅だとか。特に黄山が最高だ、と教えてもらう。それから香港人が中国本土にくるのはビザはいらないが、逆は必要だ、とか夢中になって筆談をしていたら随行員の李さんが食事だと呼びに来た。このままみんなの方にいくのでおじいさんとはお別れのあいさつをした。
みんなと一晩ぶりの再会。食堂車での朝食。10年前にも食堂車で食べたがずいぶん良くなっている。お腹の具合が悪いTさん用におかゆをもらってみんなの車両の方へいく。昨夜は青い顔をしていたTさんも今朝はだいぶん顔色が良くなっていた。
午前10時過ぎに柳園着。柳園から敦煌までバスで2時間。現地ガイドが敦煌の概要を説明してくれたが、半分は寝台車での睡眠不足を取り返すべく寝ている。
199709-meisazan.jpg蜃気楼をみた。はるかむこうの山がまるで水に浮かんでいるように見える。
敦煌市内着後、ホテルで休憩。有志でバザールとついでに博物館を見た。バザールよりも横町の屋台の方が庶民臭くておもしろい。博物館で瓦当文(がとうもん)の拓本を買う。4年前よりかなり高いので値切るのにも力が入る。
夕刻、鳴沙山へ。休憩後のせいか、みんな顔色がいい。鳴沙山の入口には立派な石碑や建物ができていて驚かされる。らくだに乗っていくと更に驚ろいたことに月牙泉の形をしたプールのようなものを作っている最中で、その中に浮かんでいるボートに「長江」の文字を見てがっかり。観光地化されるとはこういうことなんだなぁ、と思う。
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でも鳴沙山は昔のまま、美しい風紋をみせてくれた。鳴沙山の裾にらくだにのった私たちの影がうつり、まるで「月の砂漠」の歌のようだ。 鳴沙山にのぼり、木のボードで滑り降りてくる。砂の山なので昇りにくいがはしごのおかげでぜいぜい言いながらもなんとか昇る。頂上はやはり気持ちがいい。
一番上のきれいな砂を持参の袋に取る。すべり降りるのはけっこうスピードが出てこわいが、途中で止まってしまい、その後はすべるというより漕ぐ感じでかえってつかれた。その後、またラクダに乗り駐車場の近くまで帰る。


1997年9/18 シルクロードの旅:敦煌

今日は1日莫高窟の観光。朝早く莫高窟へ向かう。途中の砂漠は村人のお墓で地代はただと聞き、みんなで多いにうらやましがる。
見学した窟は以下の通り。
午前中 16-17、328、323、57、61-63、130、148、45
午後  427、428、275、257、249、237、96、98(計19)
私は4年前にここを訪れたので今回は2回目。1回目はどの窟もみな同じような暗い室内、同じような塑像、壁画に見えたが、今回は前回よりもじっくり鑑賞することができた。塑像の違い、壁画や天井絵のすみずみまで見る時に「ゆとり」のようなものを感じた。1回目の私は表面だけしか見でいなかったのだ。

ところで前回足元に敷き詰めたレンガまで本物なのに驚いたが、今回は45窟以外は全部コンクリの床に変わっていた。文化財を踏み付けている心苦しさからは開放されたものの少しさびしい。
莫高窟入り口に4年前にはなかった立派な建物が建っていた。日中共同で建設した莫高窟博物館で莫高窟の主なものの模写、模造を展示するという。これが完成したら本物の莫高窟は閉鎖し、観光客はすべてそちらを見ることになる。そうなったら室内に電気もひけるし明るく見やすくなるのだろうが、どんなに精密に作った模造品よりも暗い部屋で懐中電灯で照らしながら見る本物に比ぶべくもない。
夜、交流会を行う。明朝西安へ飛ぶ予定だった飛行機が午後便になったので、敦煌では予定に無かった陽関や敦煌城の見学ができることになったが、西安見学の時間が短くなる。

1997年9/19 シルクロードの旅:敦煌 → 西安

今日も天気がいい。敦煌のホテル、敦煌賓館北楼は静かで品のいいホテルだ。今日も中国式の朝食。
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午前中に陽関、敦煌城(撮影所跡)を見学。陽関も4年ぶり。4年前には烽火台と標識と小さなお土産屋さんが1軒あっただけだが、今回は博物館に立派なお土産屋さん、見晴らし台、記念碑までできていた。馬を勧める農民も増えた。でもここのながめのすばらしさは変わらない。いつも東京の狭いところにしかいない私にとって、心が広がっていくようだ。
敦煌城(撮影所跡)は映画を見た人にはあのシーン、ここであの俳優がどうした、と楽しく会話が弾んだ。ここは何通り、こっちはどこの町の風に作ってある、と説明があったが、何といっても砂漠の真ん中。黄色い砂でおおわれ、建物も黄色っぽく、中国大地の「黄色」を実感させられる。
昼食後、ホテルで休憩してから飛行場へ。西安までの飛行機は今回も中国にしてはめずらしく時間通りに飛ぶ。
中国では飛行機にのると相変わらず記念品をたくさんくれる。ゴミになってしまうようなものばかりで、この分費用を安くしたほうがいいのではないか、と思う。
西安空港から餃子で有名な徳発張へ。新しいきれいなお店だが何せ食事の開始時間が21:30過ぎ。食事終了時間が23:00。それから行ったホテルは今までで一番きれいな日本人経営のホテルだが翌朝は1日半の観光予定を1日で廻るため7:00には出発しなければならない。すごく残念。

1997年9/20 シルクロードの旅:西安 → 北京

朝7:00出発だが6:40過ぎてもメンバーが2人、食事に来ない。添乗員が慌てて呼びに行くが、聞こえないのでドアチェーンがあかずに呼べない。困った添乗員はドアの下から紙を差し込んだ。たまたまその2人は時間の勘違いをしただけで目を覚ましていたので無事出発時間には合流。
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今日の観光は世界遺産でもある兵馬傭博物館から。開館30分前に到着したために一番乗りだ。一昨年から2号坑もオープン。一番古い1号坑は入った瞬間その迫力に圧倒される。兵士の傭の量、大きさ共にやはり群を抜いている。1つひとつの顔も髪型も全部違う。髪の毛の1本1本までていねいに作られている。漢民族だけでなく周辺民族の顔や服装、靴の裏まで見える。期待の2号坑はまだ発掘途中で有名なひざをついている兵士の傭などはガラスにいれて展示をしてあった。
199709-doshaba.jpg司令部の3号坑は傭の着色に注目して見学。最後に銅車馬を見学。前にテレビで見たが、始皇帝が実際に使っていた車の2分の1というこの銅車馬は融点が違う金と銀が貼り合わせてあり、その方法は現代技術をもってもわからないという。また復元したこの銅車馬の車輪は回ったけど、現代技術で作った歴史博物館にある複製品の銅車馬の車輪は回らないという。
始皇帝墓は遠くからながめるだけだ。ちょうど小さい山のよう。この季節はざくろの最盛期らしくバスが止まると農民や子供がざくろを手に手に売りに来る。食べてみたが酸っぱかった。
楊貴姫ゆかりの華清地を見学後、昼食。午後は歴史博物館と碑林を観光して西安での忙しい観光が終了。
夕方の飛行機で北京へ。久しぶりの日本食の夕食後、10時すぎにホテルへ。北京は2泊で連泊なのがうれしい。


1997年9/21 シルクロードの旅:北京

朝、目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのかわからないくらいぐっすり寝た。観光は今日1日で終わりだ。
今日は日曜日の上に日本は飛び石の4連休で、北京の観光地は混んでいるために朝は8:00出発。
明の十三陵というが実際観光できるのは1つだけ。棺室では本当に押し合いへしあいの混雑でグループからはぐれないようにするだけで必死だ。表に出ると緑がきれい。ウルムチ、トルファンに比べると日本に近い分だけ、気温や湿度も日本に近いように感じる。最も一面砂漠の黄色い砂が見えないための錯覚かもしれない。
昼食は日本の観光地の団体専用食堂のようなところ。ものすごく大きく駐車場には大型バスが連なり、表示を見るとほとんどが日本語で会社や地域、趣味のGPらしい名前が表示してある。ここで日本の高校生の団体に会った。修学旅行に海外に行く話を聞いたことはあったが、実際に出会ったのは初めて。海外で見る制服は何か違和感を覚える。
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万里の長城はリピータなど数名がロープウェイでいくことになった。私もロープウェイ乗り場へ。空から万里の長城を見てみたい、と話しながら行ったがロープウェイはヘリコプターではないので横から登って高いところまでいける、ということだった。山の稜線にそって築かれている万里の長城の眺めは雄大。しばし眺めて、さあ戻ろうと降りかけたら、顔を真っ赤にした徒歩組4人と感動の再会。会えないとガイドからいわれていたのに。後で添乗員が感心していたが、普通45分かかるコースを彼女たちは30分できたことになる。
市内への道路は舗装されてきれいになってはいたが、大渋滞でかなり時間がかかった。この後、お土産やさん、食事、観劇というスケジュール。今夜も遅い。

1997年9/21 シルクロードの旅:北京 → 成田

いよいよ今日は帰国。10日間は長いと思っていたが、過ぎてみれば早いものだ。
5:45バッゲージアウトの予定だが5:30にボーイがドアをたたく。5:45でしょ、と言ってドアをしめてもまたたたかれる。せかされてとにかくトランクをだす。6:00朝食、6:45出発。9:25の国際線なのでやむを得ない。
空港で10日間お世話になった随行員の李さんとお別れ。彼は日本の手話を一生懸命覚え、自分でコミュニケーションをとろうと頑張った好青年だ。「今回のGPは事前に耳が聞こえない、とは聞いていたがまさか90%が聞こえないとは思わなかった、メンバーのバイタリティと旅行を楽しむ術のうまさに感動した」という。 飛行機は時間通りに離陸。今回は珍しく飛行機はすべて予定時間通りだった。中国の飛行機事情もだいぶんよくなった、ということか。
成田にも時間通り着。夫と10日ぶりに再会。みんなとは再会を期して別れる。事故なく全員無事帰国。団長、添乗員さん、そしてみなさん、ご苦労様&ありがとうございました。